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日本の美はなにに帰す?

中国の古典である列子楊朱篇には「天下の美は舜・禹・周・孔に帰し、天下の悪は桀・紂に帰す」とあるそうです。
舜・禹・周公・孔子のような徳の高いとされる人は自分のやっていない良い行いまでやったことにしてもらえる。
桀・紂のような暴君・悪人は自分のやっていない悪いことまで彼らがやったことにされるという意味です。

私はこれを聞いて日本の美は聖徳太子と弘法大師に帰すだなとおもいつきました。
私の地元でもこの二人に関する説話がたくさん残っています。
おそらく日本中にはかぞえきれないほどたくさんの聖徳太子と弘法大師の偉業をつたえる説話があることでしょう。
聖徳太子はお札にもなっていますが、日本の善の象徴とされてきたのではないでしょうか。

日本の悪はどうでしょう?
わたしは思いつきませんでした。
足利尊氏が天皇(南朝)に逆らった謀反人として悪にされた時期が日本にもありましたがいまいち庶民の間には根づいていない気がします。
わたしはぴんときません。
おなじく天皇に反乱を起こした平将門は壮麗な神田神社に祭られています。
日本では悪の象徴とされる歴史的人物はいないようなきがします。

のろいやオカルトは自滅をまねく。

どうも私のまわりに言葉にこだわりすぎる人間が多い気がする。
人にちょっとでも悪口かなにか言われるときにしすぎるひとたち。
他人になにをいわれようが自分の本質、心はいっさい変わらないことをわすれてはいないか。
あまつさえ言葉になにか力があると思っている人もいる。
日本でいうと言霊や呪いというやつだ。
原始宗教のオカルト。
まったく意味がないとも思わないがほとんど迷信であり、それを信じることのマイナスがおおきい。
人を呪ったり、なにか自分の欲望(金、出世)をつよく願っても意味などない。
むしろエゴが強くなりすぎて自滅をまねくであろう。
人間の意志、エゴなど真理の前には卑小なものだ。
人間の魂は真理にしたがったときにのみかがやく。
人間の言葉は不完全なものということを忘れていけないだろう。
仏教ではお経でさえ悟りを開いた後は忘れるべきだとしている。
言葉の教えは彼岸に渡るための乗り物なのだ。
他人からなにを言われようと自分の本質は変わらない。
自分がどう考えようが、自分の本質も変わらない。
宗教の教え、お経、四書五経、聖書、コーランですらもうのみにすれば原理主義者とよばれおそろしい外道におちる。
わたしの文章などまさにチラウラでしかないだろう。
天上天下唯我独尊、人間はだれもたった一人しかいない存在なのである。
それを忘れてしまい自分を見失ってしまうことこそおそろしい。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

とらわれてはいけない

ドイツではいまだに激しいナチス規制を行って国民の表現の自由を規制しているようだ。
最近ではP&Gの洗剤のラベルに18と88という数が表示されていたとして出荷停止になったと報道していた。
ナチスの後継団体ネオナチにとって18と88は特別な意味のある数字のようだ。
私にはこの規制は馬鹿げているようにみえる。

私はこの話を聞いて演歌を思い出した。
ナチス規制と日本の演歌、縁がないようだがあるのである。
わたしがおもいだしたのは、千昌夫さんの望郷酒場だ。
「おやじみたいなヨー 酒呑みなどにならぬつもりが なっていた.」である。
酒ぐせのわるいおやじが嫌いでおやじみたいにならないつもりでいてもおやじのようになっていたということだろうか。
私はこの歌詞にすごい共感している。

ナチスやネオナチが仮に完全な救いようのない悪だとして、それを規制することは善なのだろうか?
私はそうは思わない、同じ過ちをくりかえしているだけだある。
これが人間のおもしろいところである。
嫌いな人間がいるとしてその人間に反抗したからといって人生豊かにならないのだ。
むしろ嫌いな人間にとらわれた不幸な人生をおくるだろう。
嫌いなおやじに反抗してみても、おやじとはまたちがったアホになるだけなのだ
馬鹿の反対も馬鹿だったりする。

私は最近岩波書店の中村元・紀野一義訳注の「般若心経 金剛般若経」を読んでいる。
この本は日本語でお経が読めるすぐれものです。
お経はくりかえしなにごとかにとらわれてはいけないと説いている。
ドイツのナチス規制を見ていてそれを思い出しました。
はげしい規制、差別よりも寛容こそ大切ではないだろうか。
とらわれてはいけない、合掌

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学

道をうまく説明した文章に感動!

道とは何か?
道という言葉があるがこれはなかなか説明が難しい。
私は説明できるかもしれないがながったらしくなるだろう。
道はいろいろな日本語の一部として使われている。
武術の名前として剣道、柔道。
キリスト教徒はよく伝道という言葉を使う。道を伝えるということ。
外道という言葉もあります、道から外れた人間のことをさします。

この初心者にはむずかしい道という言葉の意味をもっとも簡単に説明している文章を中庸から見つけたので紹介します。

天の命ずるをこれ性という。性にしたがうをこれ道という。

天(神さま)が人間にこうなれと命じているのをといいます。
ちょっとむずかしいとおもうかもしれませんが、わかりやすい例をあげると人間は生まれたときに男性女性にわかれていますよね。
人はなんにも努力しないのに、男は男らしく女は女らしくなりますよね。
そして天、神様にしたがことをというのです。
「道がある人だなあ」というのは、天や神様にしたがっている人という意味になります。

わかりやすさに感動したので記事を書いてみました。
みなさんの理解の手助けになれば幸いです。

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

なぜキチガイという言葉を規制してはいけないか?

キチガイという言葉が使われていることを理由に漫画「はだしのゲン」を規制しようという動きがあるという新聞報道を聞いた。
私はばかばかしい話だと感じるとともに、日本語を一部の愚かな人間が勝手に規制することに恐怖を感じた。
きちがいという日本語は多くの名作で使われている。
近代の作品では中勘助「銀の匙」、漫画「釣りキチ三平」ででてくる。
古典でも三河物語や葉隠など多くの書物ででてくる。
キチガイという言葉が規制されることにより日本の名作が日本人の手から遠のくことがあってはならない。

そしてこのキチガイという日本語には深い意味が隠されているかもしれない。
キチガイは漢字で気狂いと書く。
気というのはおそらく朱子の理気二元論の気のことではないか。
気を心ととらえる人がいるかもしれないが、実は気は物質的な意味合いがつよい。
人の心やこの世を動かす見えない根源的な力は理なのである。
理屈という言葉はこの理からきている。
理を屈してしまう、理を曲げてしまうというのが本来の意味だ。
わたしは昔の日本人がきちがいを理ぐるいとしなかったことに人間の心にたいする深い理解を感じる。
キチガイはあくまで気が乱れているくるっているのであって、理がみだれているのではないのだ。

キチガイにかぎらず特定の日本語を規制して使えなくしてしまえば、まちがいなくどんどん日本人は馬鹿になっていくと思う。
なぜなら日本語にはわれわれの祖先の知恵がつまっているからである。
日本語こそ日本文化そのものだということを忘れてならない。
軽々しく政治的な浅はかな動機で日本語を規制してはならない。

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怒助兵衛

Author:怒助兵衛
エッセイスト。
随筆はじめました。
マスコミが書けないタブー書きます。
政治経済、歴史、娯楽など気の向くままに随筆を書いていきます

Twitterもやってます。
@ikari_sukebei

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