レーシック 視力回復手術 助兵衛の随筆 ひとつの人生の中に輪廻はある。

ひとつの人生の中に輪廻はある。

今回はわたしがまだ20代だった時のこと、仏教でいうところの輪廻(りんね)をおもわせる体験をしたことを書きます。
27,8歳のころ私は子供のころやりたかったバス釣りをやりはじめました。
子供のころやれなかったうっぷんをはらすかのように休みにはさかんに車で河に釣りに行っていました。
ある暖かい日に近所の有名なバス釣りスポットの河に釣りに行きました。
釣り場につくと私はあわただしく釣り具をセットしました。
そしてコンクリートの護岸をのりこえると川岸にたってルアーを投げ始めました。
私はブラックバスを釣るということにとてもこだわっていました。
若き日の私は趣味である釣りだけでなく仕事でも目に見える形での結果にこだわっていました。
すこし精神の平衡を失っていたかもしれません。
目に見える形での結果を残すことでしか自分は幸せになれないと思っていました。
幅が10メートルもなさそうな河にむかってルアーを投げて巻きとってをくりかえしているとふと奇妙な感覚におそわれました。
私は同じまちがいをくりかえしているのではないかという気になったのです。
ざんねんながらどんなまちがいなのかはそのときははっきりとはわかりませんでした。
私が立っていた場所は高いコンクリートの護岸のそばで、正面方向には橋がかかっておりまわりに人はいませんでした。
自分が世界の中にひとりぼっちであるかのようなさみしさを感じました。
いままで経験したことのない感覚でした。

今思うとあれは欲にくるった自分に神があたえてくださった教えだったのかもしれないと思います。
仏教で輪廻(りんね)という言葉があります。
輪廻とは愚か者が生死を何回もくりかえすことです。
輪廻のなかにあるものはおなじまちがいを何回もくりかえして苦しみます。
自分のまちがいにきづいて解脱したものだけが輪廻から解放されます。
若い時の私はまさに輪廻のまっただなかにいるおろかものでした。
さまざまな欲に狂いふけり執着していました。
あの時はまさにブラックバスを釣ることに執着していました。
大きな魚を釣りたい、たくさん釣りたいそう思っていたのです。
あの時感じたさみしさは人が自立したときの孤独だったような気がします。
人は自立する時この世にひとりだけのかけがいのない自分になると同時に神から課せられた義務を自覚できるようになります。
人生時にはなんで自分だけこんな目にあうのかという苦しい目にあうことがあります。
しかしさみしさは一瞬で、すぐに自然とともに生きる喜びにあふれました。
殺風景に見えていたまわりの景色もなにやら生き生きとして見えてきました。
私は当時は宗教の本はほとんど読んでおらず宗教団体にも属していませんでした。
そんな私がこのような宗教的な経験をするのがおもしろい。
残念ながらこの若き日の印象的な経験も私を根本的に変えることはできませんでした。
わたしが病に半殺しにされ、回心するのは33才のことです。
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怒助兵衛

Author:怒助兵衛
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