なぜ平安時代の地方の開発領主(武士)は田地を荘園に寄進したのか

図 任国に赴く受領(因幡堂縁起)
なぜ平安時代の地方の開発領主(武士)は、摂関家や皇族といった朝廷有力者、有力寺社の荘園に自分の田地を寄進したのか?
私は学生の時に日本史を勉強したときに、それが気になってしょうがなかった。
寄進と言うとせっかく開墾した自分の土地をあげちゃうのか?、さすがにそれはないだろうなどいろいろ考えた。
日本史の教科書には肝心なところ、なぜ田地を寄進するのか書いてなかった。
最近この謎がとけたので、読者の皆さんにもご紹介します。
どうやら地方の開発領主は摂関家や皇族といった朝廷有力者、有力寺社に自分の田地を寄進することにより国に払う税金や雑役(強制労働など)を免れようとしていたらしい。
摂関家や皇族といった朝廷有力者、有力寺社は税金を払わなくていいという免税特権を持っていたのだ。
合法的な節税のための田地寄進だったのだ。
寄進と言うと、譲渡したようだが、田地の実質的な支配権はもちろん地方の開発領主である武士のままである。
当時の朝廷の法的な所有権が移転しただけだ。
地方領主は摂関家や皇族に無料で寄進して、免税特権を手に入れることはできない。
摂関家や皇族、有力寺社にみかえりとしてワイロを渡す必要がある。
またワイロだけでなく、みかえりに京都平安京で有力者の身辺警護などをすることもあった。
たしか河内源氏の祖源頼信だったと思うが、仕えていた藤原道長が家を新築した時に、京の人が見たこともない豪華な家具(その家で使う家具すべて)を贈ったという話が残っている。
豪華な家具家一式分というワイロがきいたのか、源頼信は熟国(農作物がよくとれる国)といわれる美濃守や鎮守府将軍などの受領に朝廷から次々と任命されている。
朝廷の有力者と主従関係を結んでおくとさらにいいことがある。
地方領主(武士)は、朝廷から派遣された受領(国司)と税金の負担をめぐって争い、時には殺し合いになることもあった。
そういった朝廷の禁じた合戦をしてしまった時でも、ワイロをおくっておくと罪をもみ消してもらえたり、軽い罪にしてもらえることがあった。
摂政藤原道長は家人(家来)である安房の荘園領主藤原某が安房の国衙(役所)を襲って国司を殺すという事件が起きた時に、書類の不備を理由に家人の国司殺しの罪をもみ消している。
天皇が任命した国司を殺すといった、重大な凶悪犯罪でも摂政である道長はもみ消すだけの力があったのだ。
国に税金を払わない田地が急増したので、国の税金収入は減り経営はとても苦しいものになっていき、大和朝廷と天皇の力は急速に弱っていく。
莫大なワイロをもらっていた摂関家藤原氏などの有力貴族も、朝廷自体の力が弱ったせいでその権力は弱まり、ワイロ収入も減っていっただろう。
そして河内源氏である源頼信の子孫である源頼朝が朝廷とは別の政権、鎌倉幕府をうちたてるのである。
武士と呼ばれる地方領主は、貴族より武力もあったが、田地の経営能力も高かったのである。



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