レーシック 視力回復手術 助兵衛の随筆 2010年05月

尾崎豊が亡くなってもう18年。個性を受け入れる日本であれ。

最近尾崎豊をまた無性に聞きたくなってCDをひっぱりだしてきて聞いている。
私は18,9の大学生時代によく尾崎豊の曲を聴いていた。
今聞いてみると若いときと尾崎の歌に対する印象が微妙に違う。
尾崎豊の歌は日本人の精神風土をするどく描写したんだなあと感心することしきりである。
若いときにはわからなかったことが、おっさんになってわかるよーになりました。

「大人達は心を捨てろ捨てろと言うが俺はいやなのさ」
1983年尾崎豊のデビューシングルである「15の夜」の一節。
今聞いてもこの歌詞は私の心にズキンと衝撃を与える。
日本の大人達は心を捨てろと子どもたちに言っていると尾崎豊は感じた。
日本人は社会人になれば組織に隷従して生きていくために個人としての良心を殺さなければならない。
話が少し変わるが、宴会で新人や若い人に酒を強要したり一気飲みさせるのは、日本で昔から行われてきた若者を組織に隷従させるためのリンチだ。
今でも毎年大学のコンパでは一気飲みを強要して急性アルコール中毒で若者が死んでいく。
若者が強要された酒を飲むという行為には組織に対する忠誠心をみせているという意味がある。
酒やアルコールは尾崎の歌にもたびたびでてくるね。
尾崎はその日本の精神風土を大人達は心を捨てろ捨てろと言うと表現した。
尾崎豊はアーティストの命ともいえる心を捨てることはできなかった。
日本人は大人になるにつれ良心を捨て組織に隷属し自己欺瞞をすることをおぼえなければならなくなる。
組織に隷属する限りは生活は保障される。
まだ弱冠18歳にしかなっていない尾崎は直感ででそれを見抜いた。
天才というしかないだろう。
おそらく尾崎豊は良心を捨て組織の奴隷になることを拒否して高校をドロップアウトしたのだろう。

尾崎豊の隠れた名曲シェリー、若い尾崎が学校をドロップアウトし日本社会にもまれ人生をどう生きるべきか、もがき悩み苦しんでいる歌。
私も若いときどう生きるべきか悩んだのでこの曲をはじめて聞いたときとても共感し感動した。
シェリーのなかで「俺は真実へと歩いているかい」という歌詞がある。
尾崎は五里霧中の青春の迷いの中にいたのだろう。
尾崎はまさに東洋哲学でいうところの道を求めていたのではないか。

「シェリー 見知らぬところで 
人に出会ったらどうすりゃいかい
シェリー 俺ははぐれ者だから 
おまえみたいにうまく笑えやしない」

このシェリーの一節から尾崎にも日本の若者らしいシャイなところがあったんだなと感じる。
中年になった今となっては見知らぬところで人に出会ったら自然体にふるまえばいいんだよと思うけど、私も若いときはそんなどうでもいいことにも神経質になったもんだ。
日本人は自分の良心にそって生きるっていう人が少ないから、こんなどうでもいいことで悩んじゃう。
自分の心のおもむくままに運命にそって生きていけば良いんじゃないかな。
尾崎も道を求めながら、道を知ることはできなかったのだろう。

1992年尾崎豊は若くして悲劇的な最後をとげた。
あれからずいぶんたったけど日本っていう組織はあんまり変わってない気がする。
やっと民主党に政権交代はしたけど、まだまだ官僚と金持ちがふんぞりかえっているし、国民は精神的にお上に依存している。
だけど少しずつ日本人の心は変わってきてるよ。
個人の良心にそって生きる人が昭和の頃よりは増えているような気はしています。
自分より若い世代を見ると、我々や上の世代より人間的にやさしい人が多いなって感じます。
論語の言うところの後世畏るべしです。
尾崎豊のような個性的だけど才能豊かな青年が生きづらい国だった昭和の日本。
これからはそういった個性的な若者を受け入れられる日本であってほしいと思います。
そうであってこそ自殺者も削減できるのではないでしょうか。
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ジャンル : 小説・文学

日本人は無責任という特権を捨てられるか。

芥川龍之介の箴言集「侏儒の言葉」に私が深い印象を受けた一説がある。
最近この言葉をなぜかよく思い出すことが多い。

【「侏儒の言葉」より引用 開始】
兵卒
 理想的兵卒は苟いやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。
   又
 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。即ち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。

【「侏儒の言葉」より引用 終わり】

箴言集というだけあってなかなかするどいことをおっしゃる。
私は日本人というのは芥川の言う兵卒に近い精神風土を持っているような気がする。
われわれ日本人は絶対的に服従するが、絶対的に責任を負わないのである。
別の言い方をすると日本人は理性を捨てる代わりに、無責任という特権を持っているといっていい。

無責任であるから批判されることはない。
だから日本人にとって公然と他人を批判するのはタブーである。
公然と他人を批判するというのは責任をとらなくていいという日本人の特権を侵害する行為であるからだ。
どんなにまちがえていることをしている人がいてもそれを公然と批判することは許されない。
だから歴史をふりかえると日本という組織は時にとんでもない暴走をしてきた。
日本にある組織同士の利害調整は密室で根回しというかたちでおこなわれた。

日本にも数少ないが本物のジャーナリスト(田原総一朗、上杉隆、鳥越俊太郎)がいて彼らは事実にもとづいて報道をする。
事実に基づいた報道は時に公然と権力や個人を批判することになる。
繰り返すがそれは日本社会にとってタブーである。
日本人の精神風土とジャーナリズムは相性が悪い、水と油だ。
日本のまじめなジャーナリストは極右から「サヨク」「朝鮮人」と呼ばれ誹謗中傷されている。
私も日本人であるので極右の言いたい気分のようなものは理解できる。
彼らは日本人がもつ無責任特権の侵害にたいして抗議しているのだ。
ジャーナリストが真摯にに仕事をすると必ず日本の「無責任特権」タブーを破ってしまう。
極右勢力から誹謗中傷されることは、ある意味ジャーナリストの勲章かもしれない。

最近民意という言葉がマスコミの報道でとびかっている。
しかしこの民意というのがくせものだ。
日本人は権威に絶対服従傾向があるから、マスコミのさじかげんひとつで民意は見事に操作されてしまう。
アメリカやイギリスでは新聞やテレビといったマスコミはもっとも信用されていない組織といっても過言ではない。
イギリスで一番信用されていない組織は新聞・雑誌、2位が政党、3位がテレビである。
民主主義というのは欧米の制度であるから、個人の精神が自立している欧米人が社会を構成していることを前提に作られている。
欧米とは違った精神風土を持つ日本人が欧米発祥の民主主義という制度を自国にもちこんだゆえに不適合反応をおこしている。
これまで日本人は無責任特権によって批判されなかった自身の精神風土と向き合わなければならない時がきたような気がします。
日本が本当の民主主義社会になるためにはそれはさけて通れない道です。
今までどおり理性を捨てて無責任特権にしがみつくか、それとも理性を取り返して無責任特権を捨てるか。
われわれ日本人はどちらを選ぶのでしょうか。
それとも日本人は欧米型の民主主義社会とはちがった日本独自の政治体制を模索するのでしょうか。

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怒助兵衛

Author:怒助兵衛
エッセイスト。
随筆はじめました。
マスコミが書けないタブー書きます。
政治経済、歴史、娯楽など気の向くままに随筆を書いていきます

Twitterもやってます。
@ikari_sukebei

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