レーシック 視力回復手術 助兵衛の随筆 コラム

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道をうまく説明した文章に感動!

道とは何か?
道という言葉があるがこれはなかなか説明が難しい。
私は説明できるかもしれないがながったらしくなるだろう。
道はいろいろな日本語の一部として使われている。
武術の名前として剣道、柔道。
キリスト教徒はよく伝道という言葉を使う。道を伝えるということ。
外道という言葉もあります、道から外れた人間のことをさします。

この初心者にはむずかしい道という言葉の意味をもっとも簡単に説明している文章を中庸から見つけたので紹介します。

天の命ずるをこれ性という。性にしたがうをこれ道という。

天(神さま)が人間にこうなれと命じているのをといいます。
ちょっとむずかしいとおもうかもしれませんが、わかりやすい例をあげると人間は生まれたときに男性女性にわかれていますよね。
人はなんにも努力しないのに、男は男らしく女は女らしくなりますよね。
そして天、神様にしたがことをというのです。
「道がある人だなあ」というのは、天や神様にしたがっている人という意味になります。

わかりやすさに感動したので記事を書いてみました。
みなさんの理解の手助けになれば幸いです。
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なぜキチガイという言葉を規制してはいけないか?

キチガイという言葉が使われていることを理由に漫画「はだしのゲン」を規制しようという動きがあるという新聞報道を聞いた。
私はばかばかしい話だと感じるとともに、日本語を一部の愚かな人間が勝手に規制することに恐怖を感じた。
きちがいという日本語は多くの名作で使われている。
近代の作品では中勘助「銀の匙」、漫画「釣りキチ三平」ででてくる。
古典でも三河物語や葉隠など多くの書物ででてくる。
キチガイという言葉が規制されることにより日本の名作が日本人の手から遠のくことがあってはならない。

そしてこのキチガイという日本語には深い意味が隠されているかもしれない。
キチガイは漢字で気狂いと書く。
気というのはおそらく朱子の理気二元論の気のことではないか。
気を心ととらえる人がいるかもしれないが、実は気は物質的な意味合いがつよい。
人の心やこの世を動かす見えない根源的な力は理なのである。
理屈という言葉はこの理からきている。
理を屈してしまう、理を曲げてしまうというのが本来の意味だ。
わたしは昔の日本人がきちがいを理ぐるいとしなかったことに人間の心にたいする深い理解を感じる。
キチガイはあくまで気が乱れているくるっているのであって、理がみだれているのではないのだ。

キチガイにかぎらず特定の日本語を規制して使えなくしてしまえば、まちがいなくどんどん日本人は馬鹿になっていくと思う。
なぜなら日本語にはわれわれの祖先の知恵がつまっているからである。
日本語こそ日本文化そのものだということを忘れてならない。
軽々しく政治的な浅はかな動機で日本語を規制してはならない。

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ジャンル : 小説・文学

なぜだめ人間はひとのわるぐちばかりいってしまうのか?

日本ではだめなやつは人の悪口、陰口をよくいうってよく言われる。
だめなやつは他人のことがきになってしょうがない。
だから人のあら、欠点がきになってしまうのだろう。
おなじようにだめなやつは、他人をよくねたむ。
他人のことをきにしてばかりいて肝心の自分の欠点はおるすになってしまうのも問題だ。

徳のあるひとは自分のことをしっかりやるので忙しい。
自分のことをしっかりやって生きるというのはなかなか大変なのだ。
彼らはいい意味で他人のことを気にしていない。
自分がよく生きることができればそれが他人にとっても一番いいのだ。

だめなやつは自分の外のことにあやつられる。
他人やら金やら名誉やらに右往左往する。
徳のある人は心のままに生きる。
他人や名誉や金など外のことにわずらわされず自分の人生を生きることができる。

禅では自分のことをしっかりやることを大事にする。
禅の公案集無門関には毎日「主人公生きているか」「他人にだまされていないか」と自問自答する禅僧の話がでてくる。
昔から他人や金、名誉などの外物にとらわれて生きている人は多かったのかもしれない。
そういうだめなやつは他人をそねみねたみながら、びくびくとして毎日をすごしていたのでしょう。
現代にいきるわれわれもたまには「主人公生きているか」「他人にだまされていないか」と自分の心に問いかけてもいい。
自分の心を見失ってしまうことほど悲しいことはない。

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反省しない人間はどうなってしまうのか?

旧約聖書には有名なアダムとイブが善悪の知識の実を食べてしまい神の怒りにふれ楽園から追放される有名な話がある。
中国の古典「荘子」にも渾沌(こんとん)という人間の知恵をテーマにした話があります。
人間が知恵をみにつけたはいいが、それゆえに神から遠ざかってしまうという話の内容が一緒である。
東洋、西洋どちらにも人間の知恵のあやうさの神話、寓話があるというのは興味深い。

仏教では人の心のありかたとして無心が良いとされる。
反対に我が強い人間は徳が低いとされる。
我が強い人間というのは自分は賢いとおもっている思い上がった人間だ。
なぜ無心がいいのか、我が強い人間はだめなのか?
私も自分の人生の経験上、我が強いとおろかな行動をとってしまうと感じています。
我が強い人間は本当の自分を見失ってしまうからです。

これはある程度科学的に解明できる話だと思う。
我が強い人間の悪いところのひとつに物事をゆがんでみてしまうということがあると思う。
我が強いというのは言い方を変えると偏見を持っているということだ。
そして物事をゆがんでみているということは、現実を素直に受け入れる力に欠けるということ。
ひねくれた我が強い人間は、時間がたてばたつほど心の中がまちがった思い込みと偏見で満たされていきます。
どんな人間でも偏見やまちがった思い込みをもってしまうものだと思います。
だから人間は時折わが身をふりかえり反省する必要があるのです。
それはあたかもさびがついた刀をとぐようなものです。
人の心もメンテナンスをおこたると、刀や包丁のごとくさびだらけとなってしまいます。
あまりにも偏見という名のさびが心についてそれをほうっておくと、人間はさびが心なのか刀身が心なのかわからなくなってしまいます。
反省しない人間はこうして偏見やまちがえた思い込みを自分の心だと勘違いするようになりそれにしがみつくようになります。
さびだらけの心はあたかもさびた機械のように固くなり動きもわるくなります。
人間だれしも勘違いしたりまちがいやかんちがいをします。
それを改めずに長い時間放置しておくと、心のさびと偏見はすごい量になってたまります。
心がさびだらけになるとと精神的には異常な状態になり肉体的にも悪い影響がでます。
なにしろまちがった思い込みや偏見が自分の心の一部になってしまうわけですからまともな判断ができるわけはありません。
心も定期的に掃除することが大事です。

仏教、儒教、キリスト教で折にふれて反省することや、頑固な心を戒め柔軟に変化することをすすめているのはそのためです。
人間の知恵はすばらしいものですが欠点や副作用があることを偉大な先人たちは気づいていました。
これは現代に生きるわたしたちにも通じるすばらしい知恵です。

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なぜ行間を読なければいけないのか?

行間を読むという言葉がある。
ネットでもよく見かける言葉である。
ネットで国語辞書をひいてみると筆者が直接書いていないことを感じ取ることと書いてあった。

しかしこの言葉ほど神経質な人間にとってわかりづらい言葉はないだろう。
私はこの行間を読むという能力が一番必要とされるのは宗教書を読む時だと思う。
聖書や仏教の経などの宗教書に書いてあることをそのまま受け取ると大変なことになる。
昨今問題になっている原理主義者になってしまうからだ。
本来宗教を学ぶのは道にかなった聖人になるためであるだが、原理主義におちいると逆に外道におち悪魔となる。
宗教書ほど行間を読むことが必要とされる書物はないかもしれない。

悪しき原理主義者の例をあげると、宗教書に忠実であろうとするあまりテロリストになる例があるだろう。
ユダヤ教の一部の信者は安息日に働いている救急車に石を投げるものがいるという。
ユダヤ教では安息日は働いてはいけない日と戒律でさだめられているからである。
ユダヤ教にかぎらずイスラム教、キリスト教、仏教などどの宗教も多くの原理主義者がいるにちがいない。
宗教団体に属していないものでも原理主義者はいる、イデオロギーの教信者たちは原理主義者にちかい。
宗教やイデオロギーなどというおおげさなものではなくても、まちがった偏見に固執してしまう人は日本人に多い。

なぜ行間を読まなければならないのか?
それは本、書物は触媒のようなものだからだ。
本は読者の心を変化させるため、成長させるために存在している。
宗教書も行間を読まなければならないが、コンピューター関係の専門書もそうである。
私はコンピューターエンジニアなのでしばしばそういった文章を読むが、筆者が言いたいことはなんなのか?
受け身で本を読むだけでなくこちらから作者の言いたいことをさぐらなければならない。
受け身になって書いてあることを機械的に理解すればいいというわけではないのだ。
いわゆるむずかしい本を読む時、読者はいっそう行間を読まなければならない。

行間を読むにはどうしたらいいのか。
それは自分の心との対話にちかいのではないか。
本という触媒に刺激されてこくこくと変化する自分の心を読むのだ。
そうすれば本の作者の魂、真意を感じることができる。
答えは自分の心の中にある。
行間を読むには自分の心と対話する力が必要だ。
なぜ行間を読まなければならないかといえば人間の言語は真理をあらわすには不完全なものだからでしょう。
宗教の真理や科学のむずかしい概念をあらわすときにとくに言語の限界を感じます。
キリスト教の聖書にしろ仏教のお経にしろすばらしいものだと思いますが、それはヒントにすぎないのです。
真理は人の心のなかにあるのです。

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怒助兵衛

Author:怒助兵衛
エッセイスト。
随筆はじめました。
マスコミが書けないタブー書きます。
政治経済、歴史、娯楽など気の向くままに随筆を書いていきます

Twitterもやってます。
@ikari_sukebei

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