レーシック 視力回復手術 助兵衛の随筆 宗教

反省しよう そうしよう

ある日自分の心にあやまちがはいる。
反省してそれをとりのぞけばなんてことはないのだ。
しかしもしそうしないなら、あやまちは根をはり心の一部になってしまう。
あやまちを隠すためにまた嘘をつく、するとまた心のあやまちがふえる。
人は自分の一部になったあやまちを愛するようになる。
じぶんのあやまちに気付かないふりをするためにみてみぬふりをきめこむ。
すると感覚もおかしくなっていく。
いつしかあやまちはその人の心をおおうほど大きくなる。
ひどくからまったあやとりの糸のように、心の中であやまちの根同士がからまりあい、かんたんにはほどけなくなる。
もはや最初のあやまちはなんであったかわからない。
心があやまちでみたされると、人は理性を失っていく。
人はそうやって狂気におちいっていくのだろう。


そうなるまえにあやまちを心からとりのぞかねばならぬ。
気づいたらすぐ反省してあやまちを心から追い払おう。
部屋を掃除するように心を掃除しなければならない。
最初は心のいちぶになってしまったあやまちをとりのぞくときにいたみをかんじるかもしれない。
なれれば心の掃除は楽しいものだ。
おろかな行為をやめれば簡単に進歩できる。
あやまちのよごれを心からとりのぞいたならば
心はまたその輝きをとりもどすだろう。
雲がはれれば太陽はまたかがやく。
やる気になればあなたにもきっとできる。
人間だれしもあやまちをおかす。
反省しないですむ人はいないのだ。
反省しよう、そうしよう。


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聖書やお経なぜ感動するのか。

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画像 ローマ皇帝ウェスパシアヌス(9-79)の石膏像

Wikipediaの「新約聖書」に新約聖書にはローマ皇帝ウェスパシアヌスを称揚するために流布された奇蹟譚と同じものが多いと書かれている。新約聖書を書いた人はローマ皇帝を称揚するための話をイエスキリストにおきかえたのだろう。目的はもちろんイエスキリストをほめたたえるためである。ウェスパシアヌスがローマ皇帝在位の時はまだキリスト教は小さな組織だったにちがいありません。ローマ皇帝が大金と大勢の人々を使って製作したプロパガンダストーリーをぱくって自分のものにしてしまうあたり当時のキリスト教徒の機転と知恵を感じます。キリスト教の特徴として積極的に布教活動を行うことがあります。聖書は人々の心をつかみ伝道するための大切なツールだったことでしょう。聖書学をすこしばかりかじってみたところ、新約聖書から当時多数の宗派に分かれたキリスト教徒たちの対立が見えるそうな。新約聖書を書いた人が敵対するグループへの批判を新約聖書に書いているという。一番本当のことが書かれているといわれる新約聖書のパウロ書簡を見ても信者同士で対立があったことがうかがえる。新約聖書にはフィクションが書かれていたり、キリスト教のグループのプロパガンダも含まれているのだ。

新約聖書にかぎらず敵対するグループへの攻撃や教祖をもちあげるためのデマなど政治的な生臭い内容も宗教書にはつきものだ。宗教を批判する人の多くは宗教の迷信や嘘を批判する。たしかに迷信や嘘は存在するが、それは宗教書のほんの一部だ。そこに真理があるから宗教書は長い歴史の中淘汰されずに生き残ってきたのだ。宗教書を読んで迷信や嘘しか読み取れないとしたら、それは宗教書のほんの枝葉末節しか理解できていない。最近中国の古典「荘子」を読みかえしてみたのだが何回読んでも不思議と感動する。荘子の前に読んだ外山滋比古『思考の整理学』はなかなかいい本だったが、荘子に比べれば残念ながらかなり見劣りする。宗教書は言語や国、人種、性別、時代の違いを超えた感動を読者に与えてくれる。真理を理解し愛する人々が宗教書をリレーで後世に伝えてきた。2千年前に外国で言語も文化もちがう人が書いた本を日本人の私が読んで感動する。それこそまさに真理が存在するたしかな証ではないだろうか。

ひとつの人生の中に輪廻はある。

今回はわたしがまだ20代だった時のこと、仏教でいうところの輪廻(りんね)をおもわせる体験をしたことを書きます。
27,8歳のころ私は子供のころやりたかったバス釣りをやりはじめました。
子供のころやれなかったうっぷんをはらすかのように休みにはさかんに車で河に釣りに行っていました。
ある暖かい日に近所の有名なバス釣りスポットの河に釣りに行きました。
釣り場につくと私はあわただしく釣り具をセットしました。
そしてコンクリートの護岸をのりこえると川岸にたってルアーを投げ始めました。
私はブラックバスを釣るということにとてもこだわっていました。
若き日の私は趣味である釣りだけでなく仕事でも目に見える形での結果にこだわっていました。
すこし精神の平衡を失っていたかもしれません。
目に見える形での結果を残すことでしか自分は幸せになれないと思っていました。
幅が10メートルもなさそうな河にむかってルアーを投げて巻きとってをくりかえしているとふと奇妙な感覚におそわれました。
私は同じまちがいをくりかえしているのではないかという気になったのです。
ざんねんながらどんなまちがいなのかはそのときははっきりとはわかりませんでした。
私が立っていた場所は高いコンクリートの護岸のそばで、正面方向には橋がかかっておりまわりに人はいませんでした。
自分が世界の中にひとりぼっちであるかのようなさみしさを感じました。
いままで経験したことのない感覚でした。

今思うとあれは欲にくるった自分に神があたえてくださった教えだったのかもしれないと思います。
仏教で輪廻(りんね)という言葉があります。
輪廻とは愚か者が生死を何回もくりかえすことです。
輪廻のなかにあるものはおなじまちがいを何回もくりかえして苦しみます。
自分のまちがいにきづいて解脱したものだけが輪廻から解放されます。
若い時の私はまさに輪廻のまっただなかにいるおろかものでした。
さまざまな欲に狂いふけり執着していました。
あの時はまさにブラックバスを釣ることに執着していました。
大きな魚を釣りたい、たくさん釣りたいそう思っていたのです。
あの時感じたさみしさは人が自立したときの孤独だったような気がします。
人は自立する時この世にひとりだけのかけがいのない自分になると同時に神から課せられた義務を自覚できるようになります。
人生時にはなんで自分だけこんな目にあうのかという苦しい目にあうことがあります。
しかしさみしさは一瞬で、すぐに自然とともに生きる喜びにあふれました。
殺風景に見えていたまわりの景色もなにやら生き生きとして見えてきました。
私は当時は宗教の本はほとんど読んでおらず宗教団体にも属していませんでした。
そんな私がこのような宗教的な経験をするのがおもしろい。
残念ながらこの若き日の印象的な経験も私を根本的に変えることはできませんでした。
わたしが病に半殺しにされ、回心するのは33才のことです。

震災が教えてくれた本当の神仏

東日本大震災の時の津波襲来の1シーン。
「神も仏もあったもんじゃあねえ。神も仏もあったもんじゃあねえ。」
津波から避難してきた60歳をすぎたであろう年配の男性はそうつぶやいていた。
長い彼の人生でもそれは初めての経験だったに相違なかった。
彼のみつめる先には茶色ににごった濁流がまさに龍のように町をのみこんでいった。
山に避難した年配の男性はそれをなすすべもなく呆然と見ていた。

私はこの男性のセリフを聞いて、外国人だったら違う感想を持っただろうと思った。
宗教を学んだことのある人間なら津波がおきたことこそ神がいる証拠と考えるのではないか。
そして津波が自分の故郷を破壊することを神の怒りととらえるかもしれない。
そして神の怒りを受けて反省するだろう。
日本人は神を人間に利益をもたらしてくれるものとして考えている人が多い気がする。
であるから、天災にあったときに「神も仏もあったもんじゃねえ」というセリフがでてくるのだ。
私も日本人ですから彼の気持ちはよくわかりました。
多くの日本人は予想外の天災にあったら「神も仏もあったもんじゃねえ」と思ってしまうかもしれません。
日本人にとって神や仏はなにか利益をもたらしてくれるものであって、津波のように人の命や財産を奪うものではないからだ。

多くの日本人が宗教というとご利益をくれるというご利益宗教を思い出すと思います。
家内安全、学業成就、商売繁盛、安産祈願などなど。
みなさんこういったうたい文句を聞いたことがあるのではないでしょうか。
しかし本当の宗教とはご利益宗教とはまったく異なるものです。
ご利益宗教と本当の宗教は正反対といっていいかもしれません。
オカルトや霊などといった話も本当の宗教ではありません。

しかし東日本大震災で被災されたかたのなかにはちがった感想を持たれた方もいらっしゃったようです。
震災にあった人の中には「神も仏もあったもんじゃあねえ。」というつぶやきを聞いてこう思う方もいらっしゃったそうです。

そんな嘆きの中、ある農家の古老はボソリとつぶやいた。
「『神も仏もいない』と言うヤツは、津波が来る前から神も仏もいないんだ…」
古老は訥々と語り出す。「オレは被災する前から被災した今でも、毎朝お天道さまに手を合わせている。
大いなる恵みを与えてくれるのが自然ならば、恐ろしい災害をもたらすのも自然なんだ…」


私は農家の古老の話にうーんなるほどと思いひざをうちました。
「『神も仏もいない』と言うヤツは、津波が来る前から神も仏もいないんだ…」
古老は素朴に神仏への崇敬の念を表現しました。
日本にも少ないですが神仏とはなにかわかっている人がいます。
多くの日本人は神仏を勘違いしているのではないでしょうか。
合掌



引用先
社殿よりも鎮守の森よりも大切なもの。八重垣神社宮司・藤波祥子
http://eikojuku.seesaa.net/article/308593888.html

テーマ : 宗教・信仰
ジャンル : 学問・文化・芸術

日本の美はなにに帰す?

中国の古典である列子楊朱篇には「天下の美は舜・禹・周・孔に帰し、天下の悪は桀・紂に帰す」とあるそうです。
舜・禹・周公・孔子のような徳の高いとされる人は自分のやっていない良い行いまでやったことにしてもらえる。
桀・紂のような暴君・悪人は自分のやっていない悪いことまで彼らがやったことにされるという意味です。

私はこれを聞いて日本の美は聖徳太子と弘法大師に帰すだなとおもいつきました。
私の地元でもこの二人に関する説話がたくさん残っています。
おそらく日本中にはかぞえきれないほどたくさんの聖徳太子と弘法大師の偉業をつたえる説話があることでしょう。
聖徳太子はお札にもなっていますが、日本の善の象徴とされてきたのではないでしょうか。

日本の悪はどうでしょう?
わたしは思いつきませんでした。
足利尊氏が天皇(南朝)に逆らった謀反人として悪にされた時期が日本にもありましたがいまいち庶民の間には根づいていない気がします。
わたしはぴんときません。
おなじく天皇に反乱を起こした平将門は壮麗な神田神社に祭られています。
日本では悪の象徴とされる歴史的人物はいないようなきがします。
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怒助兵衛

Author:怒助兵衛
エッセイスト。
随筆はじめました。
マスコミが書けないタブー書きます。
政治経済、歴史、娯楽など気の向くままに随筆を書いていきます

Twitterもやってます。
@ikari_sukebei

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